日本が初めて歴史に登場するのは「倭」という国の名称で登場します。
この国の歴史は「倭」に始まり、大和になり、日本になりました。
古代日本列島には国といえる状況がなく、いくつかの環壕集落である「環」が点在して状態でした。中国人
が日本列島に来た際に国の名前をきかれ、当時の日本列島人は近しいものとして「ワ」と答えたことから
「倭」となりました。
実は「倭」という漢字は中国語であり、当時の大和言葉に「倭」という漢字は無く、中国人が東の遠い背の
低い原住民がいることから「うねって遠い」又は「背が丸く曲がって低い」という意味がある「倭」という
字を当てたのです。
実際の古代日本列島人が当たり前に思っている「ワ」とは違っていたのです。
時代が少し進み中国と交流が進んだ頃、日本列島人は「倭」ではなく「和」と称するようになりなりまし
た。後に中国も認める事となります。
それだけ、古代日本列島人には当たり前で、重要なことであったと言えます。
この「和」は「環」から来ており、「環」は人間のつながり。親交。という意味もあります。
実は「和」は儒教の国である中国にはない原理です。
この「和」という由縁が明確になった事例を紐解いていきましょう。
聖徳太子が定めた日本で初の憲法である十七条憲法には、第一条「和を以て貴しと為す」、第二条「篤く三
宝を敬え、三宝とは仏法僧なり」第三条「詔を承りては必ず謹め。君は天なり。臣は地なり」と記載してあ
り、何よりも「和が一番大事である」という言葉を一番初めにもってきたのです。
このことは「この国では、和が最も大切であり、人々が和を大切にして話し合えば、どんなことでも、おの
ずから道理にかない、うまくいく」という「話し合い至上主義」が根底にあります。
これは聖徳太子が「和を以て貴しと為す」と命じたから「和」が日本人の原理になったのではなく、古代か
ら「環」の住民たちが基本原理としてきたことなのです。だからこそ、聖徳太子は、「日本仏教の祖」とし
て崇められる仏教信者でありながら、日本人全体にさとすべき言葉として、まず「和を大切にしなさい」と
言ったのです。
ですから、「倭」と称されていましたが、実際は「和」という国の名称が正しいと言えるでしょう。
また次回のコラムで歴史の裏側のお話しをさせて頂ければと思います。